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熱狂のダブル11 — 僕、誕生日おめでとう

この記事は中国語から自動翻訳されたものです。翻訳によりニュアンスが失われている場合があります。

今年の11月11日、大手ECサイトがダブル11のセールで賑わう中、奇しくも僕の23歳の誕生日を迎えた。ここ数年やってきたことを整理してみようと思う。この記事はかなり長くて内容も細々としており、ほとんどがノートや日記から寄せ集めて書いたものだ。

この記事の大半は、自分への戒めとして書いたものだ。

僕は誰なのか?

年を重ねるにつれて、だんだんと自分を見失っていくような感覚を覚えることがある。毎回、何か良い目標を見つけられたと思っても、さらに深掘りしていくと山ほどやることが出てきて、今に至るまで僕自身、結局何がやりたいのかはっきりとは言えないままだ。けれど人生なんてだいたいそんなもので、これからもずっと迷い続けるのだろう。だから今一番重要なのは、一度やると決めたなら軽々しく後戻りしないことだ。そうでなければ人生を無駄にしているようなものだから。

労働者大代誌

これは僕がメーデー(労働者の日)に制作したプロジェクトだ。4月中旬から企画、情報収集、実装まで進めた。普段は学業や仕事もあるため、実際に割けた時間は多くなく、最後の2日間は徹夜で追い込みをかけた。

途中でさらに多くの資料を集めたくなり、いつの間にか非常に膨大になってしまったという理由の方が大きい。

時間は十分にあると思っていたが、それでも年金制度や労災統計など、カバーしきれなかった課題があまりにも多すぎた。

なぜこのプロジェクトを作ろうと思ったのか

中学・高校時代、おそらく職業科(実業系高校)出身だったこともあって、普段は新聞やテレビのニュースを少し見るくらいで、社会問題や出来事について深く知ることはほとんどなかった。

そんな半分は反省、半分は好奇心という気持ちから、台湾の過去の労働運動や関連するデータを集め始めた。給与の上昇幅、平均労働時間、出生率など、実際にデータを目にした瞬間、事態の深刻さに初めて気づかされた。 労働時間は世界有数の長さ、給与水準は10年近く停滞、出生率は世界最下位、間もなく超高齢社会に突入、などなど。

今のこんなちっぽけな僕に何ができるかといえば、せいぜいメーデーにデモに参加して、労働者の声がどんなものか耳を傾けることくらいだろう。いずれにせよ、労働者の予備軍である僕も、そう遠くない将来に同じ状況に直面するのだから。

ましてや、社会に出る前からすでにこれほど悲惨な現状なのだ。

台湾の労働環境にはまだ改善すべき点が数多くあり、後世の僕たちが享受できる果実は決して当たり前のものではない。

先人たちが血と汗、人生、ときには命さえも削って、より良い労働環境を勝ち取ってきたのだ。

エンジニアとしてできることは多くない。この社会にはテクノロジーでは届かないことがもっとたくさんある。 それでも呼び水となって、「ああ、こんなことがあったのか」と誰かに知ってもらえれば、それでいいのだ。

実際、資料を調べている最中、胸が締め付けられるような話がいくつもあった。

倒産工場の労働者が線路に寝転がって抗議したとき、群衆が「轢き殺せ」と叫んだこと。台電(台湾電力)ビルの記念碑には名前すら刻まれず、茂みの奥に隠されていたこと。台北101に建てられた国殤(労働災害犠牲者)の記念碑を見て、なぜそれが建てられたのかをずいぶん経ってから知ったことなど。

僕たちが生きる社会には「当たり前」が多すぎる。MRTが時間通りに運行し、高鉄(台湾新幹線)が無事に高雄から台北まで走り、台北101が堂々と台北の街にそびえ立ち、ゴミ箱のゴミは回収され、トイレは掃除され、24時間営業のコンビニがある。そのせいで僕たちは、その背後にあるものがどれほど多くの人々の汗(あるいは血)によって積み上げられたものなのかを、しばしば忘れてしまう。 ましてや以前は労働基準法の保護すら一切なかった労働者たちのことなど。

日語八百屋

日本語を学ぶ

日本語を学び始めた頃のことを、今でもかすかに覚えている。毎日カフェでラテを一杯頼んで、昼から夜まで居座り、学習方法もかなり泥臭いものだった。テキストの本文を何度か読み、問題や文法を解き、単語や覚えた概念をノートに書き留める。それを1年ほど続け、ノートはぎっしり埋まっていった。

この時期は本当に孤独で寂しくて心細かった。練習相手もおらず、一定のレベルに達する前は、周りからも「オタク」だの「負け組」だのといった言葉でからかわれるだけだったからだ。当時の僕にとって最良の手段は Lang-8 を使うことだった。

時として、うっかりプログラミングの罠に陥ってしまうことがある。「プログラミングに関係があるかどうか」で自分の行動を短絡的に決めてしまうのだ。当時の僕にとってそれは良い指標だったが、新しいことを学ばない理由にしてはならないのは明らかだった。

何年か前の僕は、「小説、僕の愛する麻薬」という文章を書いたことがあった。当時の文章の稚拙さや考えの青さがよく見て取れる。だが、あの頃にさまざまな方法で生活を記録していたことをとても嬉しく思う。ブログ以外にも、僕は中学生から現在までにすでに4冊の日記を書いている。

今の視点から見れば、かつての自分の無鉄砲さやバカさ加減につい苦笑してしまうが、それらも確かに今の僕を形作っている。プログラミング以外のことには目が死んでいて、世の中の他の物事に何の情熱も持てないような人間には、僕はなりたくない。

数ヶ月前、オンライン講座の準備を始めた。それまで日本語を教えた経験は一切なかったので、僕にとってとても特別な体験だった。この機会にカリキュラム作りの練習をしたいという思いに加え、過去のノートや経験を一つにまとめたいという狙いもあった。

企画には2〜3週間ほどかかった。日本語の初心者が学び始めに直面する困難を考え、名詞、形容詞、動詞、敬体と常体の変換などへと段階的に進めていく構成にした。審査に提出したときは、通らなかったらどうしようとすごく緊張した。一方で、「もし落ちたら準備しなくて済むな(笑)」と密かに思ったりもした。

合格した後は、3ヶ月に及ぶ超多忙な日々へと突入した。毎日仕事から帰るとPCの前に座って録音し、講義レジュメを書いた。幸いにも最初にコース全体の骨組みをしっかり設計していたため、無事に講座をリリースすることができた。

これによって、オンライン教育の難しさを痛感した。対面授業のような反復の手間や場所の制約は省けるものの、動画の編集には毎回3〜4時間ほどかけて制作や微調整を行う必要があり、ましてやその後の字幕入れ、特に言語教育における2言語間の切り替えは大変だった。

それでも最終的には無事にリリースでき、僕にとってかなり達成感のある経験となった。受講申し込みや質問が寄せられているのを見ると、すべて報われた気持ちになる。

日本語独学記事まとめ

語学力

今の時代、語学力はもはや基本条件といえる。それに、台湾には僕より優秀な人が想像を絶するほどいる。ほぼすべての大学や科学技術大学の応用外国語学部では、英語と日本語が標準装備だ。この2言語に精通していたとしても、統計サンプルの1点に過ぎない。

経験を整理する

子どもの頃、見直しノート(解き直しノート)を書いた経験はないだろうか?直面した問題と当時の解決策を記録しておけば、将来似たような問題にぶつかったときに、より素早く解決できる。

僕は開発時、遭遇した問題や開発の過程で派生した概念を記録しておき、月末にまとめてレビュー(見直し)を行う。整理した上で、ある程度まとまった概念のノートを1本の記事としてまとめて公開している。

君を変えられるのは、君自身の行動だけだ。

君の未来はネジ締め工ではない

『モダン・タイムス』はチャップリンの有名な無声映画の一つだ。工業化と世界恐慌の影響で労働者たちは資本家に搾取され、同時に何百万人もの失業者を生み出した。非常に皮肉な映画だ。

資本が過剰な現代において、生き延びること自体はそれほど大きな問題ではない。

だが人生について思考しなければ、作中の労働者と同じように、一日中工場でネジを締め続けるだけになってしまう。

支配するより、僕は人を助けたい - チャップリン

嫌いな仕事はするな

物事に情熱を持つことは非常に大きな推進力になる。例えば、当時お金を稼ぐために朝はバーガーキングでバイトをし、夜の独学だけでプログラミングの不足を補っていた。インターンに入ってから、その強度の違いが以前とは雲泥の差であることに気づいた。すべての物事が仕事のプレッシャーによって増幅され、生じる影響は恐ろしいほど大きかった。僕はインターンを経験して初めて、当時のオンライン講座ではまったく教えられていなかった、しかし業界ではすでに導入され始めていた多くの技術に触れた。

他人が1日10時間を費やして自分の好きなことをしているのに対し、自分は余暇に捻出したほんの数分でやっている。才能の差はさておき、時間だけでもすでに歴然とした差が生じてしまっているのだ。

人と取得単位数を競うな

現行の大学教育制度において、卒業要件は通常120〜140単位程度であり、専門選択や必修を除いても、30単位以上の教養科目(一般教養)がある。

正直なところ、受講した教養科目で本当に何かを学べただろうか?それとも単に学生と教授がお互いに妥協し合った楽単(単位が取りやすい授業)だったのだろうか。大学1年生の頃、僕も履修上限まで単位を詰め込み、良さそうに見える授業を手当たり次第に受講した。見た目には充実した時間割ができたが、本当に中身のある知識が得られたのはごくわずかな講義だけだった。ましてや台科大で教養科目を選ぶなんて、まったくの笑い話にすぎない。

「◯◯教育」を推進することよりも、自分が本当に何をしたいのかを見つけることの方がよほど重要だ。実業高校では学業のプレッシャーはそれほど大きくないかもしれないが、今の国民教育はまるで職場のように、1日8時間のスケジュールをぎっしり詰め込まれ、夜はそのまま塾に通う。夜には疲れ果ててしまい、学んだことの本質を深く考えることも、周囲の物事に関心を持つことも、興味を育むことすらままならない。

だからこそ、知識を追い求めると同時に、もっと外に出て周囲の物事に目を向け、思考し、熟考した上で選択することの方が、あちこちで単位数を競い合うことよりもはるかに重要なのだ。

バズワードに振り回されるな

君は本当に今やっていることが好きなのか、それとも単なる流行に乗っているだけなのか?少し前に持て囃されたプログラミング教育や学際的カリキュラム、機械学習などは、実際にはすべて見せかけの論点にすぎない。自分が学ぶ目的を考えなければ、こうした領域を学んでも苦痛の泥沼にはまるだけだ。

誰も君の未来を決めることはできない。

自分が何をしたいかを決めるのが難しいなら、自分が「何をやりたくないか」を決めることから始めればいい。

自分の選択を後悔するな

人生は選択の連続だ。 インターンもいい、勉強もいい、留学もいい、旅に出るのもいい、台湾に残るのもいい。 それが自分の望むものであるなら、それでいいのだ。

だが自分の人生を悔やむな。うんざりしてしまった瞬間、君は人生を無駄にしているにすぎない。僕自身、この領域を進み続けることが正しい道なのかどうか、今でもまだ確信が持てないでいるけれど。

上辺だけの人間関係に汲々とするな

大学に入ったばかりの頃は、同級生と「社交」活動に勤しむことが多かった。一緒に昼食を食べたり、夜市に行ったり、カラオケに行ったりした。しかし今にして思えば、それは単に一人のときに自分自身に問い続けなければならない疑問から逃げたかっただけなのかもしれない。

そうした一人の時間こそが、往々にして最も重要なのだ。なぜなら後になってみれば、一度や二緒にご飯を食べたり少し言葉を交わした程度で、急に腹を割って話せる親友になる人など誰もいないからだ。ましてや、そんな行為を「人脈作り」と呼ぶ人がいるなんて論外だ。

だから、大学で本当に気の置けない友人を見つけたいなら、サークル活動や役員を務めることから始めてみるのもいいかもしれない。共通の目標を持って人々が集まったときの方が、昼食時の雑談に比べて、お互いにずっと打ち解けやすいはずだ。

若さは武器ではない

多くの人は「若さは武器(資本)だ」と言う。現在の僕は幸運なことに、平均年齢30歳以下のチームで働けている。

しかしこの社会の多くの人は、君の経験や能力が何であるかなんて気にしていない。僕に2年以上の実務経験があったとしても、社会からは単なる「新卒の大学生」と見なされ、美辞麗句で体裁よく給料を値切られるだけだ。

彼らが気にするのは、大抵の場合君が何をしてきたかではなく、学歴や上場企業での勤務経験、TOEICのスコアといった、実力とは関係のない分かりやすい指標だけだ。もちろん、真の実力を持つ人はそうした条件も満たしていることが多いし、彼らは学歴や年齢といった指標などまったく気にしていない。結局のところ、「シニア」という肩書きも、長く業界にいるというだけの意味しかないこともあるのだから。

Facebook

最近、僕はFacebook上で自分の気を散らすようなファンページやコンテンツファームを大量に削除した。ドライブレコーダーの映像、ゴシップニュース、即時動画ニュースなどの類だ。自分のタイムラインが、好きでもないものにレイプされないよう極力努めている。

絶望的なのは、YouTubeでバズった動画や某女性タレントの流出写真、「一生に一度はやるべきこと」といった投稿のコメント欄が、どれも異様な熱気で盛り上がっていることだ。

それらは一見無害に見えるが、僕の心を静かに蝕んでいく。特に僕のように「次の動画」に惹きつけられやすい人間は、一度最初の動画を再生してしまうと、そのまま見続けてしまう。

最終的に、煩わしい通知を避けるためにFacebookのアプリも削除した。最初は少し慣れなかったが、それ以外に大きな変化はなく、むしろより多くの時間ができた。無意識にアプリを開くこともなくなり、本当に見たければブラウザ版を使えばいい。そのシンプルで不便な操作性のおかげで、Facebook上で無駄に時間を浪費することがかえって減った。

最も重要なのは思考することだ

台湾の教育は高校進学後、すぐに「士農工商」へと進路が振り分けられ、成績が振るわない者は二流の職業学校へと追いやられる。スケジュールを限界まで詰め込まれ、社会人と同じ1日8時間の授業に加え、さらに学習塾に通わされる。人生について考えたり、周囲の出来事に関心を向けたりする時間など毛頭なく、ただ人間を従順にさせるだけだ。

頭が極端に悪くなく、経済的にも恵まれた一般的な人間なら、大学までストレートに進むのが正規分布のような日常風景だ。しかし不思議なことに、そうした人々が卒業後に就くのは、将来性のない底辺のような仕事ばかりだ。そして彼らは、自分はとても努力したと思い込んでいる。

だが、「努力」という言葉そのものが非常に皮肉な言葉だ。特に今の時代において、「努力」は基本的に最低条件であり、他人に誇れるような特別な人間的資質ではない。大学時代に必死になって単位をかき集め、無名の授業を履修し、努力では歯が立たない科目には小細工を使って何とか誤魔化して切り抜ける。

そして4年が過ぎたとき、就職活動においてそれが何の役にも立たないことに気づく。幼い頃から自分が何を望んでいるのかを深く考えてこなかった結果、大学を卒業する頃には論理的・批判的に思考する能力を徐々に失い、流されるだけの島民へと成り下がってしまうのだ。

余計なことは考えず、ただ真面目に働けばいい。法改正?仕方がないことだ。給料を搾取されている?不満があっても生きていくしかない。そうして出来上がったのは、生活の目標を完全に失い、毎日愚痴ばかりをこぼす愚民たちだ。

彼らは社会的地位の高い人々を軽蔑するだけでなく、誰かが反旗を翻し、この社会のために声を上げようとしたとき、もしその人が自分たちほど悲惨に見えなければ、示し合わせてその人を引きずり降ろそうとする。同階層同士による「弱者による弱者への足の引っ張り合い」だ。他人が自分より少しでも良い生活を手に入れるのを恐れているのだ。

彼らはとても努力している。だが、誤った教育と思考の怠惰が重なれば、最終的にはこのような結末を招くのかもしれない。

だからこそ最も重要なのは「どう思考するか」であり、この目標は一生をかけた課題だ。「我が生命には限りがあるのに、知識には限りがない(生也有涯、而知也無涯)」という言葉の後には、往々にして次の句が省略されている。「限りあるもので限りないものを追い求めるのは危険である。それなのに知識を追い求めるのは危険極まりない(以有涯隨無涯,殆已。已而為知者,殆而已矣)」。有限の命で無尽蔵の知(知識だけに限らない)を追い求めるのは、非常に危険なことだ。そうしながら自分が賢いと思い込んでいるなら、なおさら危険だ。

知識の不足は思考で補うことができるが、思考もせず生半可な知識しか持たず、何一つまともに成し遂げられないことこそが、最も恐ろしい。そして現在の台湾の大学生は、恐らくみんなその方向に向かって進んでしまっている。

思考を訓練するにはどうすればいいか。手始めとしては、まず読書から始めるのがいいかもしれない。

2018 年の目標

あっという間に4、5年が過ぎ去り、ずいぶん遠回りもしてきた。自分の誕生日を迎えるたびに、無駄に歳を重ねているのではないかという焦燥感に駆られ、自分が正しい道を進んでいるのかどうかも分からなくなる。これまでの出来事を振り返ると、時間の半分以上を無駄に過ごしてきたような気がしてならない。それでも、それも確かに僕自身の一部なのだ。

やりたいことはまだたくさんある。けれど、本当に一つだけ確かな目標を挙げるなら、それはきっと「誰かの役に立てる人間になりたい」ということなのだと思う。

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