君は評論家になっていないか?
はじめに
「なんで Y を使わないの?」
「これくらい基本でしょ」
「最初からダメだって言ったじゃん」
批判するのはとても簡単だし、自分が賢いとアピールできる。周りより頭一つ抜けている感覚を味わえるのだから、これほど楽なことはない。
上層部を説得するのも、プロジェクトを推進するのも、他部門と調整するのも骨が折れる。けれど、ただ批判するより何百倍も価値がある。
誰かがワクワクしながら新しいフレームワークを共有すれば、コメント欄には「また無駄な車輪の再発明か」と書かれ、誰かが技術記事を書けば「こんな内容で1本の記事にするの?」と評され、誰かが会社を辞めて起業すれば友人は「どうせ失敗するに決まってる」と言う。
正直に認めると、僕自身もかつてはそんな人間だった。
経験を重ねるにつれ、世界の複雑さを理解するようになる。「知識の呪い」のせいで、何事も表面に見えているほど単純ではないと無意識に考えてしまう。そうなった時、一番居心地の良い立ち位置は、一歩後ろに引いて「傍観者」の視点からすべてを眺めることだ。
こういう言葉を吐くのは気持ちがいい。コストゼロ、リスクゼロ、そのうえ知的な優越感まで手に入る。しかし、自己満足以外には何一つ役に立たない。
ある大規模プロジェクトで、金融関連の業務フローが絡んでいたこともあり、僕もその煩雑で冗長なプロセスを鼻で笑っていたことがあった。批判するのは簡単だし、問題点を指摘するのも簡単だ。だが、口先だけで手を動かさなければプロジェクトは1ミリも進まないし、業務フローが明日変わるわけでもない。
上司から指摘されてハッと気づいた。理想論ばかりを抱えて自ら手を汚そうとしない――組織において最も厄介なのは、まさにこういう人間だ。
プロジェクトを推進するという観点から、僕は Amazon 創業者ジェフ・ベゾスの意思決定メソッド「Disagree but Commit(反対しても全力を尽くす)」(Lex Fridman の Podcast でも語られていた)がとても好きだ。
最近のプロジェクトでも深く実感したことがある。納得できない部分があっても、プロジェクトに致命的な影響を及ぼさないのであれば、推進することを最優先に置くべきだ。逆にボトルネックがあるなら、あらゆる手を尽くして上層部に報告し、データを示して関係者に「なぜこれが重要なのか」「対処しなければどういう結末を迎えるのか」を納得させなければならない。
物事をより良くするために
(画像出典:哲學哲學雞蛋糕)
これは哲學哲學雞蛋糕が翻訳した Paul Graham の「How to disagree」という記事だ。そこには反論のレベルが示されている。ネット上のコメントの大半は、レベル1からレベル4にとどまっている。
あの記事は「いかに相手を言い負かすか」についての話だが、核心にある概念はここでも応用できると思う。
僕が考える「良い批判」が備えるべき要素は次の通りだ:
- 相手を理解すること:相手の背景や思考の文脈を汲み取ることから出発する
- 解決策を提示すること:相手の至らない点を指摘するだけでなく、別の手段や方法を提案できる
逆に、物事に対して何の意味もなさない批判とは、相手の動機を疑うことだ。
批判中毒
口先だけで批判するのは実に気持ちがいい。
- ゼロコスト:ネットへの書き込みは責任を負う必要がなく、言葉が過激であればあるほど注目を集められる
- 優越感:情熱を持って挑戦した人が失敗したのを嘲笑し、「ほら見ろ、最初から言った通りだ」とリツイートする。自分の方が先見の明があることを証明し、たった一言で他人の努力を無駄骨に見せかける
- 即効性のある見返り:誰かが何日もかけて構想し、検証して書き上げた技術記事を、たった一言で覆すことができる。その効率の良さは桁外れだ
一度この思考に染まると、自分自身を騙し始めることになる。他人のやっていることはすべて愚かに見え、他人の努力はすべて滑稽に思えてくる。そして時間が経つにつれ、安全圏に引きこもって他人のアラ探しをすることしかできなくなる。
僕自身、これによって手痛い失敗を重ねてきた。昔はコードレビューの場で、自分の主観的な考えを他人の実装に押し付け、単に自分の知識をひけらかしていたことがよくあった。
しかし、どうすればプロジェクトをより良くできるか、どうすれば自分が良いと思う書き方をチームに伝えられるかについては、ほとんど考えていなかったのだ。
専門家の重荷
単純なことなど何一つない。どんな問題にも表と裏があり、どんな行動にも副作用があり、どんな理想にも矛盾がある。
だがまさにこの心理のせいで、自分自身も最初の一歩を軽々しく踏み出せなくなってしまう。
プロダクトをリリースするには気にすべきことが山ほどあると知っているからこそ、作らないという選択をする。そして、作ったものを SNS に投稿している人たちを嘲笑する。
このマインドセットは自分を押しつぶし、次第に他人を批判することしかできなくなっていく。
エンジニアから評論家へ
これは僕が技術界隈で観察してきた現象だ。
一部のシニアエンジニアは、いつからかコードを書かなくなっていく。彼らの主なアウトプットは、他人のコードのレビューや批評、他人の記事へのダメ出し、SNS での技術的な意思決定への品評へと変わっていく。
誰かが AI を使って何かを作り始めると、「あいつはゴミを量産しているだけだ」と切り捨てる。
「この設計は甘すぎる」
「この記事は浅すぎる」
「この技術選定には問題がある」。
言っていることは正しいかもしれない。けれど、彼ら自身はもう長いこと何も生み出していない。
評論するのは気楽だ。メンテナンスの責任を負う必要もなければ、失敗のリスクに向き合う必要もなく、文章を推敲したりデバッグしたりする時間を費やす必要もない。ほんの数分で辛口なコメントを書くだけで、技術的権威というオーラを手に入れることができる。
僕は今でも創作者だろうか? それとも、いつの間にか評論家になってしまってはいないだろうか?
建設的な批判を見極める
人によっては、あらゆる意見を「批判」と捉え、対話を回避しようとする場合がある。問題を指摘すると「アラ探しをしている」と解釈し、ある決定に懸念を示すと「自分を攻撃している」と言い出す。
何かに疑問を呈したり説明を求めたりすることは、職場においては至極真っ当なことであり、相手が自分のアウトプットを重視しているからこその結果だ。
では、どう見極めればいいのか? 相手が何を問題視しているのか、具体的な解決策を提示しているか、改善の方向性を提案しているかを見ることだ。
僕が誰かにアドバイスをする時は、できる限りその理由を添えるようにしている。例えば以下のようなケースだ:
- 相手が提出したレポートに重要なデータが欠けていた場合、「この数字はクライアントの予算に直結するので、とても重要だと思います。補足してもらえますか?」と確認する。(さらに上のレベルなら、自分であらかじめ計算しておく)
- この実装だとバックエンドサーバーにトラフィックが集中してしまうので、画像は CDN にアップロードすることを検討してみないか?
もちろん、「え、こんなことも思いつかなかったの? サボってるの?」と言うこともできる。だが、その言葉が目標達成にどれほど役に立つのだろうか?
一つ注意すべき場所がある。それはソーシャルメディアだ。
SNS プラットフォームは低品質な議論で溢れている。根拠のない主張、感情的な罵り合い、誰も相手を納得させられない無限ループ。そうしたものとは距離を置くのが正解だ。すべての対話に参加する価値があるわけではない。ネット上のコメントには毒がある。
ここで諦めたら試合終了だ
他人を批判することよりも恐ろしいのは、自分自身を批判することだ。
「こんなこと、僕には無理だろう」
「書いたところで誰も読まない」
「この歳から始めても遅すぎるのではないか」。
こうした自分への批判はとても現実味を帯びている。しかし、その批判はやがて「行動しないこと」を正当化する言い訳になってしまう。どうせやっても無駄なのだから、と。
おわりに
評論家でいるのは気持ちがいいし、同時にとても虚しい。そこには何も残らないからだ。
僕が本当にかっこいいと思うのは、この世界の不条理や矛盾を見抜いたうえで、日々不安を抱えながらも、自分の理想や無邪気さを持ち続け、一歩一歩着実に行動している人たちだ。
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