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Sudo インターンシップの旅 (2)

この記事は中国語から自動翻訳されたものです。翻訳によりニュアンスが失われている場合があります。

はじめに

2017年に、僕は Medium で Sudo 實習之旅 — 序章(現在は日常ブログへ移転済み)という記事を公開した。当時は空いた時間に少しずつ書き進めようと思っていたのだが、気付けばそのまま5年以上が経ってしまっていた。

自身のキャリアを振り返ると、今こうしてこの場所にいられるのは本当に幸運なことだと思う。このタイミングで改めて Sudo でのインターン時代を振り返ることで、より多くの視点をシェアできるはずだ。

僕の記事から1年後、Denny も Medium に彼自身の Sudo での旅路を綴った記事を投稿した。Sudo がアプリから受託開発、そして正式なプラットフォーム開発へと移行していった初期のフェーズは、僕が参加する前の出来事だった。Andy や Ben、Eric から断片的に聞いていただけだったので、この記事を読んでようやく Sudo の全体像を知ることができた。

Sudo との出会い

第1弾の記事でも触れたが、僕が Sudo のインターンに応募したきっかけは、聽風からの紹介だった。当時のコーディング課題は、加減乗除とカッコの優先計算ができるフロントエンドの電卓を作ることだった。一見シンプルに見える課題だが、正しい計算順序を処理するためには中置記法を後置記法(または前置記法)に変換しなければならないという面白いポイントがあった。さらに、画面に反映させるためにイベントリスナーなどフロントエンドの基礎知識を実装する必要もあった。

面接

当時の僕は CSS と HTML が書ける程度で、JavaScript は基本文法がわかるくらい、Ruby on Rails も本を見ながらいくつかサイトを作ったことがある程度だった。

だから、この課題は僕にとってかなり難易度が高かった。自分でアルゴリズムを実装しなければならない上に、不慣れな JavaScript と格闘しなければならなかったからだ。大学の授業中にも何時間もコードを書き、リファクタリングもせずにそのまま <script> タグの中に詰め込んだ。それでも、なんとか面接の連絡をもらうことができた。

今振り返ると、面接の日の光景はかなり笑える。オンボロのノートPC(Intel Core i3、RAM 2GB)をボロボロの手提げバッグに入れ、「ライブコーディングはあるのかな?」とドキドキしながら向かった。しかも夏だったのに、やたらとフォーマルな服装をしていた。

オフィスに向かうエレベーターで、偶然 Andy と一緒になった。挨拶をすると、彼はニコニコしながら僕の肩を組んで「暑くない?」と聞いてきた。僕は「創業者の人ってこんなにフランクなのか! 初対面の見ず知らずの相手にいきなり肩を組んでくるなんて」と心の中で驚いていた。面接の詳しい内容は全く覚えていないが、とにかく無事に終わった。

当時の面接場所は「AppWorks」というコワーキングスペースで、1つのフロアに数多くのスタートアップが集まっており、Sudo はその一角を占めていた。面接前にはリファレンスチェックまであった。Winston が Heart から電話を受けた際、僕のことを熱心に推薦してくれたのを覚えている。その結果、Heart は僕のことを「原石(璞玉)」と評価してくれたらしい。連絡が取りづらいとも言われていたようだが、単にお金がなくて携帯代とネット代が払えず、回線が止まっていただけだった😂。

その後、無事に採用通知が届いた。届いた瞬間は本当に興奮した。こんな自分を信じて受け入れてくれる場所があるなんて、思いもしなかった。

入社初期

入社して数日後に懇親会があった。企業で本格的にインターンをするのは初めてだったので、目にするものすべてが新鮮だった。Denny から「jQuery は最高だからしっかり勉強しておくといいよ」と言われたことと、ご飯をたくさん食べたことが強く印象に残っている。

初出社の日、席がまだ決まっていなかったようで、夏期講習に出ていた Denny の席に一時的に座ることになった。僕のノートPCはロースペックすぎて Windows がまともに動かなかったため、Ubuntu を入れて動かしていた。ビジネスチャットツールの Slack を初めて知ったのもこの時だ。

入社後の最初の数ヶ月間は、ひたすら tutplus に張り付いて JavaScript の基礎を学んでいた。そこの講座は本当に質が高く、基礎を固めるのに最適だった。当時はすでに React や Angular などのフレームワークが登場していたが、まだ比較的シンプルな時代だった。あの環境で JavaScript の基礎をじっくり学べたのは、僕にとって本当に幸運だったと思う。

基礎を終えていくつかサイドプロジェクトを作った後、いよいよエンジニアチームや PM と協力して新機能の開発に入った。この時期が、僕のエンジニア人生の中で最も成長スピードが速かった時期だ。ソフトウェア開発やフロントエンド開発のテクニック、PR の出し方、Webpack の設定、何もない状態からサービスを立ち上げる方法など、ソフトウェア開発で身につけるべき基礎をこの数ヶ月ですべて学んだ。

一度、危うくソースコードを流出させそうになったことがある。SSH の秘密鍵を誤って GitHub の公開リポジトリにコミットしてしまったのだ。今振り返ると、あんな愚かなミスをしたのによくクビにならなかったものだと冷や汗が出る。

DEVCORE によるセキュリティ診断のおかげでこのミスが発覚したのだが、幸いにも DEVCORE 以外の不正ログイン履歴はなかった。それ以来、SSH 鍵を生成するときは保存先ディレクトリを何度も確認するようになり、機密情報を扱うアカウントには必ず 2FA を設定するようになった。大失敗から身を守る術を直接学んだ経験だった。

オフィスでは毎日のように刺激があった。AppWorks の中で特に印象的だったチームは justfont だった。当時はソフトウェア業界の全体像をまだよく理解していなかったが、「フォントで起業するなんてすごいな」と純粋に感心し、創業者が忙しそうに走り回っている姿を時折見かけた。AppWorks にいた腕利きのバリスタが淹れてくれるコーヒーも、信じられないほど美味しかった。

数ヶ月が経ち、会社は AppWorks を出て、信義路にある小さなオフィスへと移転した。

開発合宿

強く印象に残っている出来事の一つに、宜蘭へ行った合宿(現地では「移地訓練」と呼んでいた)がある。みんなで宜蘭のヴィラを一棟借りて、遊びつつアクティビティを行った。

僕はあの合宿の雰囲気が本当に好きだった。毎日遊んで仕事をしなくていいから、というわけではなく、仲間と同じ目標に向かって一丸となって取り組む感覚が好きだったのだ。当時の僕はただ純粋に楽しんでいたが、何年も働き、様々な規模の会社を経験した今だからこそ、あの空気感がいかに貴重だったかがよくわかる。創業者の結婚式は僕の兵役と重なっていたり、すでに日本に渡っていたりで、後から振り返ると逃してしまったイベントもたくさんあった。

当時は、会社と一緒に成長していきたいと本気で思っていたし、その日をずっと見届けられると信じていた。「5年以内にここにいる全員に家を買わせてやる」というボスの言葉を本気で信じていたほど純粋だった。もちろん、その大きな夢が実現することはなかったけれど。

当時のボスが本気でそう思っていたのか、それとも単に社員を引き留めたかっただけなのかはわからない。でも、どちらであれ、そのことで誰かを嫌ったり恨んだりする必要はないと僕は思っている。

中期

新しいオフィスの近くに、とても美味しい朝食屋があった。僕のお気に入りは「チーズステーキオムレツ+チョコ厚切りトースト+無糖緑茶」の組み合わせだった。ステーキの焼き加減が絶妙で、チョコトーストはクリームが溢れ出るほど塗られていた。食べるとすごく幸せな気分になれるのだが、カロリーも確実にオーバーしていた。

会社に行くことが、毎朝起きるモチベーションになっていた。毎朝、頂渓から捷運(MRT)に乗って市政府駅(オフィス移転後は象山駅)へ向かう間、「今日の仕事はどう進めようか」「新しい技術系ウィークリー記事は出ていないか」と考え、気の置けないエンジニア仲間と一緒にご飯を食べておしゃべりをし、他の同僚たちと冗談を言い合う日々を過ごしていた。

日常の開発業務だけでなく、会社は様々なテックカンファレンスにブースを出展して宣伝を行っていた。そのおかげで僕もたくさんのカンファレンスに無料で参加でき、オフラインのミートアップにも顔を出して、コミュニティでよく見かける開発者たちと知り合うことができた。

当時の自分を振り返ると、あまりにも未熟な部分が多かった。年齢も若く、世間知らずで、視界には技術のことしかなかったため、周囲とどうコミュニケーションを取ればいいのかよくわかっていなかった。エンジニアチームだけでなく、他の部署の同僚たちも僕を温かく受け入れ、気さくに話しかけてくれたことには本当に感謝している。自分の未熟さゆえに多くの機会を逃してしまったことや、一時期は殻に閉じこもって技術以外のすべてをシャットアウトしようとしていたことには、今でも少し後悔が残っている。

僕とほぼ同時期に入社した Henry は、当時ほぼ素人だった僕とは比べものにならないほど優秀だった。Denny が記事に書いていた通り、彼はお金、Netflix、ゲーム、そして食べ物さえあれば、どんな技術的課題も解決してしまうような人だった。

迷い

宜蘭の合宿から間もなくして、Denny が退職を決めた。フロントエンドの担当者は僕一人になった。チーム開発に参加してからある程度の時間が経っていたため、自然と昇給の話が出てきた。僕は Denny に「会社には本当にお世話になったし、助けてもらったから……」と申し訳なさそうに相談したのを覚えている。すると Denny はこう言ってくれた。

「会社に感謝するのは素晴らしいことだけど、君は会社に何の借りもないよ。引け目を感じる必要なんて全くない」

この言葉には本当に救われた。

Denny は退職するとき、僕に『フェルマーの最終定理』という本をプレゼントしてくれた。それは小難しい数式が並ぶ数学書ではなく、フェルマーの最終定理の証明に挑んだ何人もの数学者たちの人間ドラマを描いた本だった。とても面白く読めた(詳しくは別の記事に書いている)。

私は実用的な数学理論を持たない。数学の世界を離れれば、それが世界をより快適にすることもない。だが、それで十分ではないか。答えを追い求めるのは、ただ自分自身の純粋な欲望ゆえなのだから。

この一節が、今でも最も強く心に残っている。

人生とは不思議なものだ。その瞬間下した決断が、その後の人生にどう影響を与えるかなんて誰にもわからない。Sudo での経験がなければ、当時としてはかなり先進的だったフロントエンドの知見をこれほど蓄積することはできなかっただろう。

何者でもなかった自分を、温かく受け入れてくれた会社があり、仲間たちがいたこと。それがどれほどかけがえのないことだったか、今になってようやく身に染みてわかる。確かに会社は素晴らしかったし、費用を出して僕に勉強の機会を与えてくれた。けれど、僕がそこで生み出した成果も決してゼロではなかった。昇給のチャンスを自分から断ろうとしていた当時の自分は、今思えば本当に青かったなと思う。

拡大期、そして退職

その後、会社にはなぜか次々と新しい人が加わっていった。当時の僕にはその意図がよく理解できず、一つの機能を作り上げるために全員で熱中していたかつての雰囲気が薄れていくのを感じていた。開発チーム全体にも、どこか落ち着かない空気が漂っていた。

急に大量のインターンが増えた時期があり、僕は正直戸惑っていた。人見知りな性格もあって、会社が一体何を目指しているのか完全に分からなくなってしまい、出社に対するワクワク感も急速に薄れていった。初期メンバー以外の社員や、非エンジニアのメンバーと会話することすら億劫になっていた。今振り返れば、コンサルタントという仕事も決して簡単なものではなかったし、彼らがエンジニアと積極的に交流し、開発のエコシステムを理解しようとしてくれていたのは本当に貴重なことだった。拡大が良いこととは思えなかったにせよ、周囲とのコミュニケーションを拒絶したことは僕自身にとっても何のプラスにもならず、多くのチャンスを逃す原因になっていたのだと思う。

おわりに

以前、面白半分で、当時デザインインターンだった Bleeki と一緒にオフィスで起きた小さな日常をブログに記録していたことがある。Bleeki の生き生きとしたイラストが添えられたあの未完成のブログを、作っておいて本当によかったと思う。傍から見れば他愛のない話かもしれないが、僕にとってはどれも大切な思い出だ。創業者と一緒にネットカフェに行き、肉骨茶のインスタントラーメンを食べたような経験は、他ではなかなかできるものではない。

Sudo に対しては、正直なところ複雑な感情が入り混じっている。プロダクトはまだ発展途上だったものの十分に改善の余地があったのに、なぜあのような結末を迎えてしまったのかという疑問と、「やっぱり組織や人間関係って一番難しいんだな」という諦めのような気持ちだ。

サービス終了後、僕も次の仕事を探し始めた。印象的だったのは、前職が Sudo だと伝えると、多くの人が創業者のことを知っていたことだ。人脈の持つ力がいかに大きいかを思い知らされた。

会社が大きくなればなるほど、心から信頼し合える仲間を見つけるのは難しくなる。Sudo という環境に身を置き、優秀なエンジニアチームと共に成長し、素晴らしい同僚たちと20代前半の濃密な時間を過ごせたことは、僕にとって本当に幸運なことだった。

ずいぶん昔のことのように思えるが、実際にはたった1年半ほどの出来事だ。簡単なWebページしか作れなかった未熟な少年が、React や Redux、Webpack を扱える駆け出しフロントエンドエンジニアへと成長した。当時は多くの技術がまだ発展途上で、Babel なども比較的新しい概念だった。そうした技術に最前線で触れられた経験は、僕の大きな財産になっている。

そうして歩み続け、今に至る。Sudo での日々は、僕にとって今なお色あせない、かけがえのない旅路だ。少し散漫な文章になってしまったけれど、ここに記録として残しておきたい。

あの頃の自分へ、そして、みんなへ。本当にありがとう。

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