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僕は役に立っているだろうか?

この記事は中国語から自動翻訳されたものです。翻訳によりニュアンスが失われている場合があります。

『葬送のフリーレン』のとあるシーンがとても好きだ。

フェルンがフリーレンに「私は役に立っていますか?」と尋ね、フリーレンはなぜそんなことを聞くのかと問い返す。

フェルンは「フリーレン様のように完璧に魔法を扱えないから」と答える。

フリーレンは「時間の問題は超えられないよ。でもフェルンは私より魔法を撃つ速度が速い。戦闘が早く終わる」と言った。


最近起きたいくつかの出来事でこのシーンを何度も思い出すことがあり、書き残しておくことにした。

役に立つということ

フェルンが「私は役に立っていますか?」と尋ねたこと。これは僕自身の最近の目標である「他者や会社の成長を助けること」とまさに重なっていて、このシーンを観てからずっとその問いについて考えていた。

僕はこの感謝という記事でも触れたが、幼少期は家庭環境のせいで、常に「人より一段劣っている」ような状態で過ごしてきた。ほとんどのことが他人の助けなしには達成できず、そうした生い立ちが僕に劣等感を植え付けた。だからこそ、勉強は僕が比較的うまくこなせて、厳しい前提条件もあまり必要としない唯一のことだった。

社会に出てからようやく、他者を助ける余裕が少しずつ持てるようになった。まだ給与所得者であることに変わりはないけれど、時折読者からフィードバックをもらい、「記事がとても役に立った」と言ってもらえることは、僕にとってこの上ない励みになっている。

ただ、これは5年前の僕とはまったく違う。5年前の僕は開発と技術のことしか考えておらず、いかに技術的課題を解決するかだけに目を向け、チームの視点で考えることもなかった。新しい知識や技術を学ぶことは確かに楽しかったが、5年が経った今、他人の成長を助けることのほうにより大きな達成感を覚えるようになった。特に、自分のやり方や思考プロセスが相手に自然と吸収されたときには深いやりがいを感じるし、みんなと旅の一端を共に歩めたことをとても幸運に思っている。

他人が自分より優れていることを恐れない

フリーレンの本心がどこにあるのかはわからない。だが、千年も生きてきた師匠という立場からして、相手に自分より優れた点があることを認めるのは、多くの人にとって非常に難しいことだ。

かつての僕も、おそらくその手の手合いだったと思う。

これは技術の世界ではよくあることだ。誰もがまるで優劣を競い合っているかのようで、学歴、経歴、アウトプット、年収、LeetCodeでマウントを取り合う。時々、この業界は『葬送のフリーレン』に登場する魔族のようだと例えられるのではないかとさえ思う。傲慢で、自尊心が高く、それでいて卑劣だ。

僕も初期の頃はこの手の価値観に深く毒されていた。日本永住権を取得したという記事でも吐露したことがあるが、周りは賢い人ばかりで、永遠に自分より強い人間が存在し続けているように感じていた。

誰も口には出さないが、グレードや実力で密かに品定めしてくる。SNSで昇進の報告をすれば、裏では「大したことない」と思われ、日本語能力試験(JLPT)の合格を投稿すれば、「語学力なんて何の意味もない」と見なされる。彼らは、自分の努力が正当に評価されないことを嫌うのだ。

こうした「強者崇拝」のメンタリティは、技術界隈ではとりわけ顕著だ。強ければ、どれほど徹底した嫌な奴(Asshole)であっても許されてしまう。それ自体の善悪を言うつもりはない。そうしたマインドセットのほうが、会社の成長だけを唯一の目標に据え、それ以外をすべてノイズとして切り捨てる経営者に向いていて、生き残る確率も高いのかもしれない。

けれど僕は、誰かが強くなり、それが社会へと還元されていく過程を見ることのほうが、ずっと好きなんだ。

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