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籠と槍

# キャリア回顧
この記事は中国語から自動翻訳されたものです。翻訳によりニュアンスが失われている場合があります。

これは、僕が子どものころにとても好きだった本の一つ――『五つの修練』の物語だ。子どものころはもちろん、組織だのチームだのなんてまったく分からなかった。ただ中の物語が好きだっただけだ。まさか大人になってから、この『五つの修練』の物語の内容がチームを中心にしたものだと気づくとは思わなかった。

食糧が不足したため、二つの隊が自ら名乗り出て、東と西へ食料を探しに行くことになった。

両者はそれぞれ塔にたどり着いたが、塔の上から見える景色はまったく違っていた。東の塔に登った一方が見たのは、肥沃な平原に動物の群れが点在する景色だった。西の塔に登った者たちが見たのは、広大な森に豊かな果実が実る景色だった。

部族へ戻ると、言うまでもなく、双方の結論はまったく異なった。東の塔から戻った者たちは、武器や弓矢、槍を作って動物を狩るべきだと言った。西の塔から戻った者たちは、籠や長い棒を作って木の実を集めるべきだと言った。

争いと分裂はそれ以来止まることがなく、ついには祖先たちは散り散りになって、大小さまざまな洞穴へと入り込んだ。暗闇の中で虫を食べ、石の上の露で渇きを癒やすようになった。

これは洞窟人の「影」の物語の中で、祖先たちが洞窟に住むようになった理由だ。

ばかばかしい話だろう。物語の中では、双方とも正しい。それぞれが自分の見た景色に対して適切な解決策を提案しているのだ。しかし、見えている景色が違うがゆえに互いを理解できず、争いになった。最後に残ったのは、何の罪もない子孫がそれ以来ずっと洞窟で暮らすという結果だった。

本にこう書かれている通りだ。

心智模式は、僕たちが自分自身、僕たちの世界、僕たちの組織、そしてそれらとどう関わるべきかについて抱いている、根深い信念、イメージ、仮定のことだ

キャリアであれ、開発であれ。意見が合わなかったり、考えが違ったりするのは、ごく普通のことだ。だが、アジアの家庭でよくある「正解を教える教育」は、僕たちが自分と異なる論点を考えるのをひどく苦手にさせているように思う。

人と人との間にある数多くの、答えの出ない衝突の最大の原因は、理解できないことにある。この物語では、もっとも手っ取り早い方法は相手に「君の塔を見せてくれ」と言うことだ。だが現実では、そんなふうにする人はほとんど見かけない。

もう一つの理由は、開発者が一般に、弱さを見せること、考えを否定されること、あるいは自分が間違っていたと認めることを恐れているからだ。

彼らは頭が悪いと思われるのを恐れ、無意識のうちに他人の考えに抵抗する。相手はただ意地悪で難癖をつけに来ているのだ、だから自分のほうがもっと優秀に見えなければならない、と思ってしまう。みんな口では「間違いを恐れるな」と言うのに、実際には誤りを認めることにひどく抵抗するのだ。

(同時に、僕はここでもう一度、まともな職場環境だと仮定しなければならない😂)

僕たちが目指すべきなのは、個人の自尊心を守ることではなく、より良い結果を届けることだ。僕もキャリアの初期には、考え方や意見、さらにはコードレビューでさえ挑戦されるのが、とても不快だと感じることが多かった。

だが心智模式を変えられれば、まず相手の考えを理解し、相手の立場に立って見てみることで、しばしば新しい発見がある。以前書いた記事と同じだ。君は他人の考えに興味があるだろうか。それとも、相手を言い負かして黙らせたいだけだろうか。出発点はまったく違う。

籠と槍、僕は両方とも欲しい。

何事にも例外はある

僕は最近、「三度目の正直」よりも「事は三度まで」の法則が好きだ。1回目は相手のコンディションが悪かっただけかもしれない。2回目はたまたまミスしただけかもしれない。3回目になれば、「この人は本当に駄目だ」という結論を出してよい。相手のことを思いやるのもかなりエネルギーを使う。いじめられたなら、相手に何か事情があるのではないかなんて考えなくていい。

もし身の回りが、自分と比べて水平の差が極端に大きい人ばかりなら、考えをやり取りすること自体が成立しない可能性も高い。

物語の中で、相手が籠も槍もいらない、代わりに塔を建て直そうと提案したら、僕は本当に理解できないかもしれない。そんな感じだ。

そんな環境に身を置いているなら、転職を勧める。