執筆の悪い癖
# 雑談ふと思い立って、Claude に僕の書き方を分析してもらった。分析結果は以下のとおりだ。
- 「好像」「似乎」「大概」「應該」といった語をよく使って、語気を和らげる。適度な使用なら問題ないが、多すぎると主張の勢いが弱まる
- 多くの文の冒頭は、実はそのまま削ってしまってもよい。読者は、これから何を言うのかをいちいち予告してほしいわけではない
- 文章が長くなりがちで、情報量が密になりすぎる。短い文は強調効果を生み、読者にひと息つく余裕を与える
- ときには、僕のいちばん良い見解が段落の中ほどや末尾に隠れていることがある。それを先頭に持ってきて、読者が一目で引きつけられるようにする
- 反語は少なくし、肯定文に置き換える
これらはどれも常識だ。それなのに、どうして知らず知らずのうちにこう書いてしまうのだろうか?
そのとき僕はふと「防禦性寫作」という言葉を思い出した。話を断定的にしすぎると、クソリプ勢が揚げ足を取ってくる。
クソリプ勢からの攻撃を防ぐために、僕は習慣として「僕はこう思う」「たぶん」「〜のようだ」といった語気を和らげる言葉を添えてしまう。たとえ誤りを指摘されても、「断定して言ったわけではない」と返せるからだ。
でもよく考えると、データを引用するときや、単にある事実を述べるとき(このコーヒーは40度だ)のような場合を除けば、僕が書くあらゆる文章には「僕はこう思う」が含まれている。
最近の文章では、僕はこうした表現をできるだけ減らしているが、それでもまだ改善の余地はあるだろう。AI に代わりに手直ししてもらったり、こうした「防御的な言葉」を削ってもらったりするのは、かなりいい方法だ。
防禦性寫作の記事にも、こう書かれている。
君が防ぐべきなのは、「」他人の批判ではない。なぜなら、それは防ぎようがないからだ。どれだけ心を配り、努力し、中立で客観的であろうとしても、すべての人に自分の意見を同意させることはできないし、すべての人を満足させることもできない
本当に間違っていて指摘されたなら、それはとても貴重な学びだ。謝って、記事を直せばいい。クソリプ勢は無視すればいいだけだ。よくわからない批判を防ごうとして、文章の読みやすさを犠牲にしてはいけない。
この一文で、僕ははっとさせられた。
僕は昔、自分の意見、さらには自分の好みを表現するのがあまり好きではなかった。「ソフトウェアエンジニアらしくない」と思われるのが怖かったからだ。
でも、僕はもともとそういう人間ではなかった。
大学時代、僕には別の Pixnet のブログがあって、小説の読後感想や日記を書いていた。そこは、僕が気ままに気持ちを吐き出すための場所だった。
僕の MBTI は INTP(論理学者)で、昔から今までずっと変わっていない。でも僕は、ソフトウェア開発のコミュニティの中ではどちらかというと F(感情)寄りの人間だと自認している。それでも妻からは、よく直男思考だと言われる。
たとえば、安倍晋三が銃撃されたあの日、僕は仕事にかなり影響を受けて、しまいには泣きたくなった。民主社会で、僕はあのような光景を見たくなかった。
周りの人たちが何事もなかったかのように仕事を続けているのを見て、僕はとても驚いた。そんな中で、上司だけが僕を気遣ってこう言ってくれた。「もしそういう気持ちで仕事ができないなら、そのまま休めばいい。メンタルヘルスがいちばん大事だから」
僕はいまでも、あの上司にとても感謝している。
《我有派上用場嗎?》でも触れられているように、技術界にある強者志向や優越感は恐怖から生まれている。
この界隈は本当に滑稽だと、ときどき思う。あれほど賢い人たちの集まりなのに、感情を表したり、弱さを見せたりするという、人間に生まれつき備わっているはずの欲求すら許されない。自分を証明する手段は、技術の深さ、どれだけ LeetCode を解いたか、どこのトップ校出身か、それだけになってしまっている。
もう十分すごいよ。本当に。
僕はむしろ、君の不完全さが見たい。君の人生の物語が聞きたい。君が何を好きで、何が君をここまで動かしてきたのかを聞きたい。
教えてください。